dr100の一の宮・百寺巡礼・続百名城旅日記

百名城、百名橋、百名建築、百名公園、桜の名所百選、東京23区内一丁目一番地などを訪問しました。一の宮、百寺巡礼、続百名城も完訪。発祥の地、見学施設(博物館、記念館など)、寺社仏閣の御朱印もやっています。皆様のコメントが励みになりますので、よろしくお願いいたします。

気仙沼市/宮城県(気仙沼駅) 2011/12/17







石越18:02→東北本線543M→18:24一ノ関18:45→大船渡線341M→20:06気仙沼(気仙沼市)/気仙沼駅前22:25→けせんライナー0112便→(翌)5:39池袋駅西口
 一ノ関で東北線から大船渡線に乗り換え、雪深くなった摺沢駅近辺の峠を越え、三陸海岸に出ると今回最後の目的地、気仙沼市に到着です。標高20メートルの気仙沼駅やその周囲は、ほぼ無傷の様に見えました。駅の前には「絆」のライトアップされた飾りがありました。震災から8カ月。自分の中では、何となく「絆」という文字の氾濫が鬱陶しくなってきていました。東京行きの夜行バス「けせんライナー」まで2時間余りあるので、町を歩くことにしました。海岸に向かってゆるい坂を下っていくと、ある一角で突然廃屋と空き地が入り混じり、真っ暗で信号すら点灯しない、死の街になりました。死の街は、生きている街と生きている街を結ぶ通過場所として、ヘッドライトの明かりだけを頼りに走る車だけが行き交う暗闇の廃墟でした。この場所で、3月11日に1000人以上の方がなくなったのです。津波で傾いた由緒ありそうな建物や、ひんまがって倒れたままの信号機が放置されています。この信号機を見た途端、「自分はいったい何をやっているのだろう・・・。本当は、地震のあと必要とされる時期に医師としてここに来るべきだったのではないか。」と、言いようのない虚しさ、自己嫌悪が襲ってきました。でも、それはできなかったのです。地震の当時、開業医が東北の被災地で医師会の組織の一員としてボランティアをしようとすると、県の医師会に登録するところから始まります。自分の行きたい場所に、行きたい時期に行くことは許されません。登録すると、ある日突然、「ここに場所に、この日に来てくれ」と、連絡が入り、そこに行くことになります。移動日往復二日、正味5日で、合計一週間自分のクリニックを閉める(=その間の収入がゼロになる→吹けば飛ぶような私のクリニックでも、粗利100万円ぐらいの損失になります。)ことになります。自分が行けばよいのではなく、看護師、運転手、事務員の4人一組プラス自動車(もちろんガソリンは自分持ち)はすべて自分で用意(自分以外の3人の日程をいつ呼び出しがあってもいいように数ヶ月間にわたって縛るのは事実上不可能、第一、開業医に看護師と事務員はいるが、運転手なんていない)し、薬、カルテなど医療に必要なものは自分で用意し(これは何とかなりそうだけど)、ゴミはすべて持って帰る(置いて帰っていいのは排泄物だけ)という、大きな病院の勤務医か、夫婦、親子等、複数の医師で切り盛りしている開業医しかクリアできない条件でした。地震の当時、医療についてもいろんなことが報道されていましたが、開業医が参加しようとするとそれだけ高いハードルを越えなくてはならないことなど、どこの放送局も多分報道しなかったでしょう。そして今、能天気な全市完訪の旅人としてここに立っています。そんなこんなの思いが胸のなかを去来し、数分間、倒れた信号機の前に立ち尽くしていたでしょうか。後ろを振り返ると賑やかな明かりが見え、復興屋台村が気を吐いていました。駅に戻り、震災シフトなのか、震災前にはトイレ付3列だったけれども震災後はトイレなし4列車で運行の「けせんライナー」で、日曜日の早朝の池袋まで運ばれました。今これを書いている時に写真を見ると、倒れた信号機と復興屋台村のタイムスタンプが両方とも20時50分になっているのに気がつきました。自分では数分に思えた倒れた信号機の前の慙愧の念の時間はわずか30秒ほどだったのです。
 本日は、長文で失礼いたしました。
旅行期間:2011/12/17-18 訪問地:宮城県 交通費:19660円 総額:19660円