dr100の一の宮・百寺巡礼・続百名城旅日記

百名城、百名橋、百名建築、百名公園、桜の名所百選、東京23区内一丁目一番地などを訪問しました。一の宮、百寺巡礼、続百名城も完訪。発祥の地、見学施設(博物館、記念館など)、寺社仏閣の御朱印もやっています。皆様のコメントが励みになりますので、よろしくお願いいたします。

随筆「酒」    

本日から新年度が始まります。学生になったり社会人になったり、新たな生活がスタートして、お酒との出会いがある人もいるかもしれません。お酒は適度に接している分には楽しいのですが、適量を超えると身の破滅が待っています。今日のエントリーはいつもと趣向を変えて、少し重い話なのですが、今から3年前に地元の医師会紙に掲載させていただいた随筆「酒」を転記します。いつものんきに旅ばかりしているのですが、dr100にはこんなこともあったのです。断酒は9年半続いており、おかげさまで仕事、旅行と元気に過ごしています。



                                dr100
 父も、そのまた父も底なしの酒好きだった。父は中小企業の社長だったので、お得意さんを接待するのが仕事の様なもので、夕方まで家で寝て夜になるとお得意さんと夜の街に出撃、明け方に泥酔状態で帰宅、そのまま夕方まで寝て夜になると昨日とは別のお得意さんと夜の街に出撃して明け方に泥酔状態で帰宅というサイクルをエンドレス状態で続けていた。2回に1回はお得意さんに抱えられて帰宅するという、どちらが接待しているのか分からない状態だった。それでも体を壊さなかったのは、午前様にも関わらず翌日には満員電車に揺られて出勤するといったようなことを必要とせず、夕方まで寝て休養をたっぷりとれたからなのだろうと思う。ほとんど毎晩、泥酔大騒ぎ状態で帰ってくるので母の実家の秋田ではないが、「一年中、なまはげ襲来状態」であった。そんな生い立ちで育ったので、大学に入学するまでは「酒はきちがい水」だという認識ですごしていた。
 しかし大学に入学すると、なにかにつけて酒を飲むという環境に、いやおうなしに慣れ親しむことになった。飲み始めてみると極めて美味しく、遺伝なのか、非常に強いことがわかった。合コン、クラブの会合、試験の打ち上げなど機会のあるごとに相当量を飲んだが、さすがに学生なので晩酌の習慣はなく、「機会飲酒」の範囲内で済んでいた。卒業して医師になり一人暮らしが始まると晩酌の習慣ができ、結婚してからも継続した。量としては晩酌でビール500mlと缶チューハイ一本程度。大酒家といわれるような量ではなく、飲み会で年に何回かは二日酔いになることもあるが、その程度だった。血液検査で肝機能も正常値だった。しかし、平成12年に38歳で整形外科医院を開業すると、徐々に飲酒形態が変化していった。
開業1年目。勤務医から自宅併設の無床医院の開業医になると外来オンリーになり、手術、回診、検査、夜間の呼び出し、休日出勤、満員電車の通勤がなくなる。それに伴って晩酌の量が徐々に増えていった。以後は日本酒の量に換算して記すが、当初2合だったのが3合、4号と徐々に増えていった。
開業2年目には毎晩5合ペースになっていた。当然、自宅にはワンカップや缶チュウハイの空き缶が1日5本ずつたまってゆくので2週間に1回の「空き瓶、空き缶回収の日」には約70本の瓶、缶の入ったパンパンのビニール袋を両手に持ってゴミ集積所に廃棄することになり、近所の人の手前、とてもみっともないことになる。しかし酒飲みというのはいらない知恵が妙に働くもので、コンビニに昨日の空き瓶、空き缶を持っていって店の前にあるごみ箱に捨てて(前の日にその店で購入したものだから文句は言われない)、そのままそのコンビニに入って、その日の分を購入するというスキームを編み出した。これなら瓶缶は自宅に貯まらずに済む。
開業3年目に入ると、趣味の旅行の最中でも列車に揺られて旅情を楽しむよりも飲酒が優先になり、例えば東京から大阪まで新幹線に乗るとすると、車内販売のワゴンが通路を通るたびにアルコールを購入し、新大阪に着くころには列車の窓辺に飲み干したワンカップや缶チュウハイやウイスキーの小瓶がずらりと並んでいる有様であった。もちろん本人も無事でいるわけがなく、新幹線を降りても、自分がどこにいるのか、何のためにここにいるのか泥酔しているために分からない状態のときもあった。おなかはいつもくだしていた。
開業4年目に入ると、週末の昼呑み、朝呑みが始まった。まず、土曜日の午前中、その週一週間の仕事が終わるとその足でコンビニに直行。夕方まで飲む。晩御飯をほとんど意識不明の朦朧状態で食べ終え、また飲酒。お酒を飲むとぐっすり眠れるというのは実は錯覚で、案外眠りが浅いものなので夜中に目が覚めてしまうことがある。その時間が日曜日の午前3時だとしよう。まともな人間ならそのままもう一度眼を閉じて朝まで続きの眠りをとるところなのでしょう。しかし、その頃の私はそのまま起きだしワンカップや缶チュウハイを買いにコンビニへ向かった。朝の7時ごろ、目を爛々としながらワンカップを握りしめる一家の主人を、さわやかな日曜日の朝、起床したばかりの家族は見ることになった。もちろん日曜日の晩御飯ももうろう状態で毎週全く記憶がない状態が続いた。
開業5年目に入ると世間ではハッピーマンデーなるものが普及しだし、月曜日を含めた連休が多くなった。つまり、土曜の昼から呑みはじめ、普段の週なら日曜日の夜で飲み終わるところが月曜日の夜まで呑みっぱなしになり、それだけ体へのダメージは大きくなった。今までなら連休は良好の計画を立てるところだったが、その頃はもう、旅行に行く気力も体力も無くなっていた。だからと言って飲酒が消して楽しいを言うわけでなかった。特にハッピーマンデー後の火曜日がつらかった。どこの医院でもそうだろうが、連休後の初日は混む。しかし皮肉なことに、連休後の初日が一番体調が悪いのだ。悪くなった体調を良くする手段はただ一つ、また呑むことだった。しかし、一日の仕事が終わった直後に毎回実行していたその解決方法は一時的なもので、酔っ払っている最中は楽でも、もっと激しい後悔と苦しみが翌日の朝に襲ってくるのだった。何のために生きているのかと問われれば、二日酔いと戦うために生きているのだと返事をしたかもしれない。
開業6年目に入ると、平日の夜、隣町のホテルで行われる講演会に行く最中に地元駅のホームで「一杯ぐらいなら」と、缶チュウハイを飲むようになっていた。ホテルについて受付で署名をするとき、製薬会社の人に酒臭い息が見透かされていやしないかとびくびくした。講演会の後に懇親会があって、そこで水割り等いくらでも飲めるのだからその時に飲めばいいと考えるのがまともな人の考えなのだろうが、そういう風には考えられなかった。それどころか、講演会場に入ってみると机の上にワンカップがずらりと並んであるのを見て「なんて、気のきいた製薬会社なんだ!」と感心したこともあった。しかしよく見ると、それはキャップをかぶせた水の入ったグラスだった。
開業7年目に入り、メンタル的に怒り易く他罰的になった自分がいた。今から思い返してみると、この時の私は、医師会の集まりなどで後先を顧みない発言等で皆様にご迷惑をおかけしたかもしれない。
そして、衝撃の風景に出合った。ある日曜日に東京に出かけた帰りに、昼下がりの上野駅常磐線のホームで例のごとくワンカップをごくりと呑み干して空き瓶をゴミ箱に捨てると、横にいた老年の男性が「待ってました」と云わんばかりの素早い動きで私が捨てたばかりのビンをゴミ箱から拾い上げ、底にわずかに残った酒をチュルチュルとすすりだしたのだ。酔眼を凝らして(私だって昼間から酔っていた)その男性を見ると、老人だと思っていたが良く見れば私とそんな年は離れていなさそうで、長年の酒が祟ったのか、顔はむくんで土気色で、年齢以上に老人様顔貌になっていたのだ。もちろん行動も異常だ。帰りの常磐線で流れゆく景色を酔眼で見つめながら「このままで行くと自分の長くないかも。面と向かって指摘する人はいないけれども、もう立派なアルコール依存症だ。このまま行くと50歳台前半で死ぬかも。妻も、二人の娘も路頭に迷う。もう、酒は卒業だな。」と思いました。2007年10月、46歳の時のことだった。
自分は意志の弱い人間なので、機会飲酒(普段は飲まないで、飲み会の時だけ飲む)の様なことはできません。やめるなら、一生、一滴も飲まないことにするしかありません。禁酒ではなく、一生断酒です。断酒スタートの1日目、2日目と無事に過ぎましたが、断酒3日目の夜、布団に寝ていると床が抜けて布団ごと奈落の底に引きずり込まれました。パニック状態になって妻に救急車を呼ぶように叫びました。もちろん床が抜けるわけもなく、すぐに症状は治まったので救急車は呼ばなかったのですが、アルコール依存症離脱症状だったのです。それからあとは離脱症状がおこることもなく、飲酒欲求症状もなく6年半後の今に至っています。周りの人が呑んでいても、自分も呑みたいと思ったことは一度もありません。あの時やめていなければ、いまごろ私は「お墓の下」だったかもしれません。飲酒をやめた気力体力も回復し、百名城、全大学病院めぐり等、テーマをゲーム性を持った趣味の旅行の意欲も復活しました。
おしまいに。10年後ぐらいに、今、高校生の娘の結婚式で、お猪口一杯だけ呑もうかな・・・。いや、よしておこう。また夢になる。 (落語『芝浜』の「サゲ」を拝借しました。)