dr100の一の宮・百寺巡礼・続百名城旅日記

百名城、百名橋、百名建築、百名公園、桜の名所百選、東京23区内一丁目一番地などを訪問しました。一の宮、百寺巡礼、続百名城も完訪。発祥の地、見学施設(博物館、記念館など)、寺社仏閣の御朱印もやっています。皆様のコメントが励みになりますので、よろしくお願いいたします。

歴史公園‐110-福知山城公園 (福知山城) (兵庫/福知山市) 2013/1/3


天橋立10:33→北近畿タンゴ鉄道326D→10:38宮津11:16→北近畿タンゴ鉄道112D→12:07福知山→徒歩→福知山城公園
天橋立駅に戻り宮津まで一駅だけ乗ります。宮津駅の待合室では箱根駅伝の9区をやっていました。母校は8位でした。昔はもっと強かったのですが。レトロ風な列車(立ち席もぎっしりの満員!)は二俣駅手前で雪が消え、福知山駅に到着。街中を15分ほど東に歩いて福知山城到着です。明智光秀のお城ですが、明智家最後の城主は光秀の婿養子の明智秀満です。明智光秀本能寺の変を決心するまでの逸話をwikipedia明智秀満」より少し長くなるのですが引用します。他人の口に戸は立てられないのをよくわかっていたのですね。
光秀が本能寺の変を計画した際に秀満に実行すべきか否かを質問した逸話が『備前老人物語』に伝わる。同書によると光秀は信長を討つ事を迷い、秀満を呼び寄せて相談した。秀満は「殿の上(信長)様へのお恨みはさもありなんと思います。しかし気持ちを穏やかにお持ち頂ければ、遺恨も無くなりましょう。都に近い丹波と、近江の坂本を拝領なされ、上様からは過分の取り立てを受け、冥加にかなうところでございます。少しの恨みを思い捨てないで逆心を抱けば、天命の尽きる事明白です。どうか思いとどまり下さい」と諌めた。光秀はその諫言を受け入れてひとまずその日は過ぎた。ところが翌日に光秀は家老の斎藤利三溝尾茂朝明智次郎左衛門、藤田行政らに信長討伐の是非を尋ねていた。だが4人とも秀満と同じ意見を述べて反対する。そして秀満を呼び「昨日申した事、年寄どもに密かに相談したが、その意見、皆そなたと同じであった。それゆえ思いとどまる事にした。左様心得よ」と答えた。だが秀満は顔をしかめて声を荒げながら「それがし1人の口なら如何様にもなりましょう。ですが年寄4人に打ち明けたとなれば、その口を止めるのは難しくございます。殿が上様を恨まれるように、かの年寄らがもしも殿をお恨みに申す事ができた時、天罰は逃れられません。それが是であれ非であれ、思い通りに事をなしましょう。明日に移せば一大事になりましょう」と告げた。秀満はこれほどの秘密を年寄にまで漏らした光秀の軽率がいずれ信長にも知られて禍になるから立ち上がるしかないと述べたのである。なお、同書ではこの話は事変の前日に行なわれ、秀満が決起の手立てを定め、光秀は秀満に背中を押される形で本能寺襲撃を決意したと伝わっている。