dr100の一の宮・百寺巡礼・続百名城旅日記

百名城、百名橋、百名建築、百名公園、桜の名所百選、東京23区内一丁目一番地などを訪問しました。一の宮、百寺巡礼、続百名城も完訪。発祥の地、見学施設(博物館、記念館など)、寺社仏閣の御朱印もやっています。皆様のコメントが励みになりますので、よろしくお願いいたします。

続百名城-81-高田城  2018/12/2

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居多神社1042→レンタカー9km→1102上越市立歴史博物館(高田城)

高田城(たかだじょう)は、現在の新潟県上越市本城(もとしろ)町にあった日本の城である。 2017年には続日本100名城に選定された。 徳川家康の六男、松平忠輝の居城として天下普請によって造られた。城地の縄張りと工事の総監督は忠輝の舅の伊達政宗である。 高田城は、高田平野にある菩提ヶ原に築かれた平城である。約230メートルから約220メートル四方の本丸を取り巻くように二ノ丸、南に三ノ丸、北に北の丸を配し、関川、青田川などを外堀として利用した。すべての曲輪に土塁が採用され、石垣は築かれなかった。低湿地に築城されたため排水設備が重視され、城地には現在の技術水準から見ても遜色ない暗渠が張り巡らされていた。天守はなく、1614年に3重3階の三重櫓を建てて天守の代用とした。当時の三重櫓の外観は不明で、江戸城の富士見櫓に似た外観であったと伝えられている。 明治以降、旧陸軍第13師団の駐屯地司令部として使用するために大規模な土塁の撤去、堀の埋め立てが行われ、旧城地の東半分は旧状をとどめていない。本丸を含めた西半分には堀、土塁の一部が残されており、現在は公園として整備されている。(ウイキペディアより引用) 

居多神社からレンタカーで上越市立歴史博物館(高田城)へ。上越市立歴史博物館でスタンプをいただいた後にお城へ。お城は大きな建物の代名詞にもなることは多いですが、冷静に眺めると、現在の基準ではそんなに大きな建築物ではないと思いました。