dr100の一の宮・百寺巡礼・続百名城旅日記

百名城、百名橋、百名建築、百名公園、桜の名所百選、東京23区内一丁目一番地などを訪問しました。一の宮、百寺巡礼、続百名城も完訪。発祥の地、見学施設(博物館、記念館など)、寺社仏閣の御朱印もやっています。皆様のコメントが励みになりますので、よろしくお願いいたします。

続百名城-64-能島城  2018/9/24

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 友浦港846→瀬戸内海交通バス→851村上水軍博物館

<能島城>中世、村上水軍の一派、能島水軍(野島氏)が水軍城を設けた。この付近の海域は帆船時代、瀬戸内海航路の最も重要な航路の一つであった。しかも宮窪瀬戸の東側で能島と鵜島とが流れをさえぎるような位置関係であることから、干満時には激しい潮流を生み、渦巻く急流は天然の要害ともなった。このため、平時には通過する船に対して水先案内人として行きかう船を案内し、帆別銭(一種の通行料)を徴収、室町期以降この地に能島城を築き、この海域の制海権を掌握していた。能島城には本丸、二の丸、三の丸、出丸などがあり、中世の水軍城としても規模が大きいものであった。なお、能島には水が得られないことから、近傍の鵜島や木浦から補給していたとされる。 戦国末期、村上氏は豊臣秀吉との戦いに参戦したが敗北を喫し、1588年(天正16年)、秀吉の海賊停止令により、水軍の歴史は終わりを告げた。能島城は廃城となり、江戸時代以降無人島となったため、その城塞遺構はよく保存されている。 (ウイキペディアより引用)

友浦港からバスで村上水軍博物館へ。背もたれの白いカバーがレトロな感じです。能島城は瀬戸内海に浮かぶ能島にある村上水軍の城で、上陸ツアーに申し込んでいたのですが7月の大雨で島内の遊歩道が崩壊して上陸ツアーは中止になりました。上陸しないと石碑はありませんが、しかたがありません。村上水軍博物館は入場料200円のところ学割(dr100は、早稲田大学通信制の学生なのです)で150円でした。スタンプ自体は受付で無料で押せました。見応えのある博物館でした。館内の「能島城、続百名城選定!」と書かれた垂れ幕で写真としました。港に出て、遠くに能島を眺めました。