dr100の一の宮・百寺巡礼・続百名城旅日記

百名城、百名橋、百名建築、百名公園、桜の名所百選、東京23区内一丁目一番地などを訪問しました。一の宮、百寺巡礼、続百名城も完訪。発祥の地、見学施設(博物館、記念館など)、寺社仏閣の御朱印もやっています。皆様のコメントが励みになりますので、よろしくお願いいたします。

続百名城-5-大多喜城  2018/4/14

f:id:dr100:20190225062633j:plain

f:id:dr100:20190225062636j:plain

f:id:dr100:20190225062639j:plain

f:id:dr100:20190225062646j:plain

f:id:dr100:20190225062649j:plain

f:id:dr100:20190225062652j:plain

f:id:dr100:20190225062655j:plain

f:id:dr100:20190225062700j:plain

f:id:dr100:20190225062704j:plain

f:id:dr100:20190225062706j:plain

f:id:dr100:20190225062710j:plain

 大多喜城(おおたきじょう)は、現在の千葉県夷隅郡大多喜町にあった戦国時代から江戸時代かけて存在した日本の城(平山城)。初めは小田喜城(おだきじょう)と呼ばれていた。江戸時代には大多喜藩が置かれていた。 大永元年(1521年)に真里谷信清が「小田喜城」として築いたのがはじまりとされる。以前は小田喜城は同町内の根古谷城のことであり、今日の大多喜城徳川家康によって大多喜の地を支配した本多忠勝が築城したものと考えられてきたが、近年の発掘によって現在の城の地下に大規模な城の遺構が遺されていることが明らかとされて、小田喜城と大多喜城とが完全に重なる訳ではない(戦国期には裏山である栗山が城の一部に使われていたが、江戸期には栗山は除かれてやや麓側に縄張りが移動されている)ものの、現在では信清の小田喜城を元にして後の大多喜城が築かれたものと考えられている。(ウイキペディアより引用)

イカーで訪問しました。スタンプのある千葉県立中央博物館大多喜城分館へ。入場料は200円でした。中は撮影禁止でしたが、見応えはありました。