dr100の一の宮・百寺巡礼・続百名城旅日記

百名城、百名橋、百名建築、百名公園、桜の名所百選、東京23区内一丁目一番地などを訪問しました。一の宮、百寺巡礼、続百名城も完訪。発祥の地、見学施設(博物館、記念館など)、寺社仏閣の御朱印もやっています。皆様のコメントが励みになりますので、よろしくお願いいたします。

橋-85-余部橋梁 2010.4.29(祝)


植村直己冒険館→同じタクシー(3580円)→11:13江原11:32→北近畿3号→11:51香住12:32→山陰本線→12:44餘部→徒歩→余部橋梁 
江原駅で予定外のタクシー26分待ちをしてしまったために、予定の普通列車には乗れず、特急券630円の出費をして北近畿3号にのりました。特急は、餘部には止まらないので香住で下車です。本来の計画なら、ここ香住駅からタクシーで余部に向かうはずだったのですが、篠山城で8:25にスタンプを押させていただいて少し予定より先行しているので、普通列車に乗り換えができます。タクシー代3500円を節約でき、しかも余部鉄橋を鉄道で渡れるのですから、少しの先行の余得は大きいです。でも、篠山城の職員の方の望外の御計らいで早く押せたのですから、最初から計画に入れて、現場で職員にフライングのスタンプを強要するようなことは、してはいけないと思います。余部駅は崖の上に建っていて、新しい橋の工事の真っ最中でした。香住〜浜坂間で山陰本線最後の未開通区間が開通したのですが、最初は餘部駅はありませんでした。余部の人は、トンネルを通って鎧駅まで歩いて列車に乗ったそうです。1959年1月に駅を作る許可が出て、その3が月後には最初の列車が停まったのですから超突貫工事です。子どもを含めた村人総出で石を運んだことが、小学校の時の国語の教科書に出ていたの思い出しました。駅を出ると、急な坂道を降りて鉄橋の下にある町に下るのですが、毎日通勤通学でここを使う人は大変だと思いました。鉄橋の下にある地蔵は、1986年のお座敷列車「みやび」が強風にあおられて転落し、車掌1人と、鉄橋の下にあった食品加工工場の職員5人の計6人が亡くなった時のものです。海のほうに歩き、鉄橋のよく見える地点に行くと、鉄道ファンだけでなく、観光バスの団体客も鉄橋を目当てに大勢来ていました。少し話は変わって、今回の旅行の前に買った防水のキャラバンシューズなのですが、履き心地はとてもよく、ずっと履いていても疲れません。しかし、いったん脱いでしまうと、次にはくときに紐をいちいち結ばなければならず、前屈の姿勢を数十秒するので、少し面倒です。余部の海岸で波が来て少し海水が靴の中に入ってしまいましたが、防水ということは、中にはいた水もなかなか外に出ていかない理屈で、なかなか、中が乾きませんでした。